※この記事は、私が南米を旅行した2015年2月末~3月頭当時の情報です。現在と異なる状況がありますのでご容赦下さい※
※また、残っている写真と記憶を頼りに書いているため細部は間違っていることもあるかと思います。併せてご容赦下さい※
☆この記事は「読み物」としてお楽しみください☆
今回は念願のウユニ塩湖を訪れた際の記事です。テレビで見たことのある景色を目にし、興奮を隠せない私達。短い時間ながらも絶景を堪能し、とんぼ返りでラパスへ戻る私達をまたも襲うトラブル!ボリビア前後編の後半、鏡の湖 ウユニ塩湖 編をお楽しみください。
目次
現地ツアーガイドを雇う
ウユニの町へついて、早や数時間。陽も昇り快晴の空の下Aさんとの朝食を終えた私たちは、念願のウユニ塩湖に行くべく現地のツアー会社を訪れていた。町の一角にツアー会社が何社か集まっており、日本人の旅行客も複数存在した。ツアーのスタイルとしては、運転手兼ガイドがSUVを駆ってウユニ塩湖まで連れて行ってくれるスタイルで、参加人数が車の定員に近づくほど一人当たりの料金は割安になるようだ。
周囲の日本人観光客は、初めまして同士の2人組が声を掛け合ってツアーに申し込んだりしているようだった。私たちも時間に余裕があればそういった旅先での出会いも楽しみたいところだったが、何せ時間がない。夜にはウユニを出て明朝にはラパスにいなければならないのである。と言うことで現地ガイドと交渉し、割高だがお金を払う分私達2人だけでツアーを催行してもらうことに成功した。
ガイドの名前はレンスゥ。レは巻き舌だ。耳で聞いただけなのでスペルは全く分からない。この、真っ黒に日焼けした体に白いシャツが爽やかな恰幅の良い男のおかげでウユニ塩湖ツアーは大変満足度の高いものになった。
今回のツアーでは、20時発ウユニ発ラパス行きのバスに乗れるよう19時過ぎにウユニに帰ってくる時間制限の中でウユニ塩湖を含む観光地を回れるようオーダーした。話だけ聞くと、地図下方のlaguna verdeなども素晴らしい景色と言うことだがとても制限時間内に戻ってこれないので、ウユニ(Uyuni)→列車の墓場(Cimetiere Des Trains)→コルチャニ村(Colchani)→ウユニ塩湖(Salar De Uyuni)という行程となった。
列車の墓場
午前10時半頃、ウユニの町を出発。町を出るとすぐに道路の両脇は荒涼とした大地が延々と続き、地平線から上は水色から青へとグラデーションを彩る空が広がっている。出発して10 分も経たないうちに最初の目的地「列車の墓場」へと到着した。後から調べると、列車の墓場はウユニの町から徒歩でも行ける距離とのことですぐに到着したのもうなずける。到着すると、大地の遥か彼方まで延びる線路と列車の墓場の紹介文を印字したプレートがあった。プレートは割れてしまって一部文字が読めず内容は良くわからなかった。
ウユニ塩湖を目的として行った私たちは、この日まで列車の墓場と言うものがあることを知らず、廃墟化した何十両もの列車に純粋に心躍らせ見て周り、昇ったり腰掛けたりしていた。後から知ったことだが、この廃棄された列車達はその昔、まだ太平洋までボリビアの領土があった時に鉱物資源を内陸から太平洋まで運搬する重要な役割を果たしていたんだとか。しかしチリとの領土戦争に敗北した結果海沿いの領土を奪われ、鉱物資源の枯渇も相まっていつしか使われなくなり放置されていったそうな。
その放置され廃墟化した列車群が一つの観光資源となっているのは皮肉なものだが、ともあれ列車にはアートが施されているものがあったり朽ち方もまちまちであったりなかなか見ていて飽きない。特に廃墟ファンの方にはたまらないのではないかと思う。見るだけでなく、写真のように登ったり中に入ったりも自由だ。閉じ込められる危険性はほぼないが、登ってみると意外と高いので足を踏み外して落ちないよう注意は必要である。
昼食
列車の墓場を後にし、ツアーの次なる目的地「コルチャニ村」へ向かう。ここで昼食と言うことであったが、着いた先は一軒の民家の駐車場。乾いた大地に民家が点在しているため、どこが駐車場でどこが道なのかすら定かではない。もはや駐車場という概念とはここには存在しないのかもしれない。
民家風レストランかと思えば、リアル民家である。家の前では少年が自転車に乗って遊んでいる。どうやらガイドのレンスゥの自宅のようで、現地の昼食を体験できるツアーと受けてめてみたが、もしかしたらお客さん向けで実際の現地人の昼食はもっと質素なのではないかとも思う。
鶏肉のフライは、鶏むね肉のような感じの食感でシンプルな味付けであった。米はややぱさぱさしていてタイ米と日本米の中間のようだ。生野菜はトマトとウリ科の実だ。ウリ科の実は見た目がメロンのようなので、甘くないメロンと我々は名付けて貪っていた。野菜炒めは人参、ジャガイモ、サボテンが入っていたように思う。写真をご覧になって想像つくと思うが、全体を通して2人で食べる量ではないと感じた。なるべく残さないように私とYは限界まで食べたが、4~5人のツアーを想定してガイドの奥さんが準備してくれていたのかと思うと、余った分がもし廃棄になってしまうとしたらなんだか申し訳ない気持ちになった。
昼食を終えた私たちは、コルチャニ村のお土産屋街に連れて行ってもらいお土産を買い漁った。どの店もアルパカの毛で編んだ衣服がたくさん置いてあり、そしてどこに行っても売り子の女性は「100%ベイビーアルパカ」と品質の良さを売り込んできた。まんまとその言葉に乗ってお土産を何点も買う私はきっと良い金ヅルだったのだろう。しかし購入した服は日本の北の大地でいまだに活躍している。
塩のホテルと塩田
いよいよ塩湖へと向かう。段々と茶褐色の大地が白と茶の斑に変化していく。そしてところどころ水が張った部分が出てくるが、まだ水深にバラツキがあったり風があるのか鏡張りではない。しかし自分が今確実に塩湖の上にいるのだと思うと、写真で見て憧れを抱いた鏡張りに期待が膨らんでくる。
塩湖を更に進んでいくと、析出した塩を積んだ山や塩田が出現する。塩を積んだ山は意外と高く成人男性の腰ほどの高さもある。それが何基もあり何とも不思議な光景だ。塩田の方はというと、よくテレビなどでみる塩田そのものでブロック状の塩の塊を切り出している。製塩していないので当たり前なのだが、食卓にあがる塩と異なりこの段階はまだ茶色の混ざった白色だ。
この塩のブロックを使って作られている建造物がある。そう、塩のホテルだ。その名も「Hotel Playa Blanca」。Playaは砂浜などの意味でつかわれることが多いようだが、南米では平らで広い場所を指す言葉としてもつかわれるらしい。Blancaは白を意味する。さしずめ白い平地に建つホテルのようなイメージなのだろうか。外見はこのように意外としっかりしているが、国旗が雑多に掲げられていて高級ホテルというよりは宿屋という感じだ。
内部はこのようになっており、壁も柱も、椅子もテーブルもオブジェも全て塩である。宿泊客以外でも割と自由にいろいろなところまで入っていけた。
鏡張り
塩のホテルを後にしていざ、鏡張りへ向かう。徐々に変わる景色、一面に貼る水面を揺らしながら走る車内から、この旅の一つの目的である鏡張りを目にした時の感動は今も色鮮やかに私の脳内に刻まれている。どちらともなく歓声をあげる私とY。レンスゥは周囲に人がまばらなところまで私達を連れて行ってくれ、そこで車を停めた。
ビーチサンダルに履き替えて塩湖に降り立つ。インターネットで検索して出てきた画像以上の光景が目の前に広がっている。風もなく凪いでいるため、きれいな鏡を見ることができた。たまに吹くそよ風が気持ち良い。湖底の塩の結晶は長径5cm程度の薄い塊で、塩田の塩のブロックよりもより白く美しい。
ひとしきり鏡張りを堪能したのを見届けたレンスゥが私たちに声をかける。「車の上に登れ」と。人数の少ない2人だけのツアーだからなのか、なんと屋根の上に私達2人を乗せて360°鏡張りを楽しみながら移動もできるという粋な演出をしてくれたのである。
見渡す限りの鏡張りを高い視点から堪能でき、本当に来てよかったと感激したのを覚えている。遠目に見える他の観光客は、なにやら奇抜な衣装を着て写真撮影をしていた。映える写真を撮影したかった一般人だろうか、それともどこかの国の芸能人だったのだろうか。
高山病再び
そうこうしているうちに素晴らしい時間はあっという間に過ぎてしまった。日も暮れ始めて夕方に差し掛かった時、粋な男レンスゥからまたも提案が。なんと夕日の鏡張りを見ることができる場所に連れて行ってくれるという。しかも彼とっておきの場所で他の観光客はまず来ないのだとか。是非連れて行ってほしいとお願いし移動開始。まばらながらに周りにいた観光客は次第に見えなくなり、遂には夕暮れの中に私たちの車だけとなった。塩湖から陸地に一度上がり、目的地周辺に到着するも私は動けなかった。
そう、私は急な頭痛に襲われていた。移動中しばらくして感じた違和感。そんなまさかと自分に言い聞かせてYと会話し気を紛らわせようとしたのも無駄な抵抗だったようだ。全く動く気になれない。若干吐き気もする。彼方に見える水面と夕焼けを目にし、行きたい気持ちはあるのに体がついてこない。断腸の思いで塩湖までの徒歩移動を諦め「Y…俺を置いていけ…。夕焼けの鏡張りの写真を…頼む…」とYに言づけるので精いっぱいだった。
帰りのバスはいずこ・・・?
Yは海外旅行の上級者であり鉄人なのだろう、高山病のそぶりもなくはしゃいで帰ってきた。陽も暮れて、一路ウユニの街へ向かう。目指すは私達が手配したラパス行きのバス会社のオフィス前だ。どうやら整備されたバスターミナルというものは無く、バス会社のオフィス前がバス停のようだった。レンスゥは予め伝えておいた時間にバス会社のオフィス前まで送ってくれた。何度も感謝の言葉を述べ、彼と別れた私達は首をかしげる。バスがいないのだ。オフィスも閉まっている。
閉まっているがオフィス内からは光が漏れている。とにかく聞いてみるしかない。オフィスの扉を叩くと、めんどくさそうに職員のおばさんが出てきた。ここで衝撃の事実を知る。私たちが予約したバスは既に出発した後だったのだ。これは完全に私たちのミスで、なぜか1時間予約を間違えて把握していたのだ。おばさんにまだ今日ラパスへ帰る手段はあるか聞くと、どうやら他のバス会社から最終のバスが21時にあるという。
急いでそのバス会社のオフィスへ向かい、2枚のチケットを頼む。そこでまたもピンチが。なんと、現地通貨ボリビア―ノが不足している。その原因は明確だ。そう、「100%ベイビーアルパカ」。なんとかドルを捻り出し、チケットを購入。ギリギリでラパス行きのバスに乗車することができた。
国境を越えてペルーへ
なんとか乗車したバスでは泥のように眠り、明朝ラパスに到着。
今度の目的地はペルーの空中都市マチュピチュ。まずは国境越えだ。
南米旅行回想記⑤~国境を越えてクスコへ編~に続きます!